心の優しい人だとは思う

衆議院が解散され、次回総選挙に元首相が立候補しない記事が掲載された今日の読売新聞の一面。
その記事のすぐ下に「編集手帳」という短いコラムがある。その記事の全文を引用してみる。

小欄にご登場していただくたびにポイントがたまるとすれば、一等賞はこの人だろう。鳩山由紀夫元首相が政界を引退するという。ポイント還元セールではないが、今日ばかりは去り行く常連さんにペンの切っ先が甘くなるのも仕方がない◆心の優しい人だとは思う。目の前にいる相手をとにかく喜ばせたい一心で、米大統領には「普天間」移設を約束し、沖縄県民には「県外」を約束する。どちらにも罪な嘘をついた形になり、日米関係はひび割れた◆稀有な人だとは思う。歴代首相のなかに、似たタイプの人はいない◆首相を務めたあと、政府の反対を押し切り、百害あって一利なきイラン訪問で不評を買った。「首相」の務まらなかった人はいても、「元首相」まで務まらなかった例を他に知らない◆鳩山語録から、印象深い言葉を引く。2年前の民主党代表選で菅直人小沢一郎両氏の激突を回避するべく"調整"に乗り出したものの、事態を混乱させただけで失敗に終わった。周囲にもらした当惑の一言。<ボクはいったい、何だったんでしょうね>。回顧録を書かれるときは、タイトルにどうぞ。

ここで取り上げたいのは、この元首相に関することではない。
このコラムの中の「心の優しい人だとは思う」という文の、「〜とは」の使い方についてである。
近年、この「〜とは」という言葉遣いを目にしたり、耳にすることが多い。
単に、「心のやさしい人だと思う」とせずに、「心のやさしい人だとは思う」とすると、助詞の「は」の働きにより、「他の点はともかくも、そのことだけを取り上げれば」の意味が付加されるから、肯定的な言葉を使った場合でも、否定的な意味合いが強くなる。
この言葉遣いは、先に肯定的なこと、正論を述べたあとに、助詞の「が」または、接続詞の「しかし」などの逆接の言葉が続き、その前の肯定的なことをひっくり返す内容になることが多い。
その意味で言うと、このコラムの「〜とは」の使い方は正しい。つまり、元首相の政治家として、また一国の首相としての力量、あるいは手腕という点はともかくも、人間として、優しいかどうかと問われれば、「優しいとは思う」ということだ。
しかし、近年よく耳にする「〜とは」の使い方は、「は」を付け加える必要のないところで、「〜とは」とやるから、聞いているほうとしては、なにやら、留保すべき点があるのかと勘ぐってしまう。
たとえば、あるスポーツの新人賞受賞のインタビューで、受賞した選手が「非常に光栄なことだとは思います」などとやる。
これでは、受賞したことを素直に喜んでいるようには聞こえない。本人がそのあとに何も付け加えなくても、「こうした賞をもらったからには、それなりに周囲の期待にこたえなくてはならなくなって、あとが大変だ」といっているように聞こえる。
短い言葉の持つこうした大きな意味に、まったく無頓着な使い方は若い人に多いように思うが、若いとはいえない、壮年期のニュースキャスター、いい年をした政治家の言辞の中にも頻繁に見出される。
有体に言って、日本人は自らの使う言葉の正確さには無頓着だ。ちょっとしたニュアンスの差にも当然ながら気を使わない。
よく、言葉の乱れということが、年配層から若年層に向けて発せられるが、この年配層からして、言葉の正確さには無頓着なのが日本人なのだ。
それにしても、このコラム、相当に笑える。読んだあとも、しばらく笑いが止まらなかった。
笑いどころは二箇所。最初の笑いどころは「『首相』の務まらなかった人はいても、『元首相』まで務まらなかった例を他に知らない」のところ。
二箇所目はもちろん最後の部分。多分この部分はある程度以上の年齢の日本人全員、同じ意見だと思う。