知性が大事#11

初対面で人の顔を見るなり大笑いするとは無礼千万なのだが、マイクの姉にしてみれば、ちょっとお馬鹿な弟が連れてきたという人間が、真っ黒に日焼けしたチビの東洋人で、しかも自分の弟よりはるかに年上の中年。これが笑わずにいられようかということなのだろう。
英語で言えば、
She couldn't help laughing at the small suntanned Japanese, who was much older than her brother.
まあ、日本人でも見かけだけで人を判断し、無礼な態度をとる人間はいくらでもいたから特に腹も立たなかった。
その後、このマイクの姉とは朝食のときにテーブルで一緒になる以外には特に話をする機会もなく、せいぜい挨拶程度だけだった。
あるとき、たぶん土曜日の夕食後だったか、明日は日曜で農場での仕事はないのでケンのうちの居間でのんびりテレビを見ていたときだったと思う。
ケンはあまりテレビの番組を熱心には見ておらず、新聞紙を見ながら何かをしていた。
何をしているのかとそちらを見ると、新聞のクロスワードパズルをしていた。
日本語の言葉に関するパズルもそうだが、ある程度の語彙力、言葉への関心がないとこういうパズルはしないものだ。
ケンは農民ではあっても自分の語彙力には自信があるのだろう。テレビ番組はそっちのけでパズルに熱中していた。
パズルの完成度合いはどうかと見ると、ほとんどの箇所は埋まっていて、ほんの数箇所が空所で残っていた。
「もう少しで完成だね。空いているところは分からないの?」と聞くと、最初の文字が分からないので、なかなか単語を思いつかない。」との返事。
最初の文字は縦の行の単語で埋まるが、これも分からないので縦と横の二つの単語が埋まらないままになっていた。
私にも縦の単語は分からなかったが、横の単語は6文字で、"To think logically"とか何とかというヒント。最後の文字が"e"。
直ぐにぴんと来た単語が"deduce"または"induce"。
で、その事をケンに言うと、"What do the words mean?"と聞くので、
"Deduce means explaining a specific case by using a general rule or principle while induce means explaining by using former cases.These two are the very basic of logical thinking."
とか何とかそんな趣旨のことを答えた。
上記の英語を日本語に訳すと次のようなことになる。
「演繹とは一般的規則または原理を用いて、ある特定の事象を解き明かすことであり、帰納とは、同じ事を先例を用いることで行う。これら二つは論理的思考の根本である。」
この答えに、ケンはかなり驚いたようだ。クロスワードをするとき、シソーラス(同義類義語辞典)を使うネイティブが多いのだが、ケンも手にしていたシソーラスで私が言った二つの単語を引いてみた。
しかしシソーラスには上記のような意味は出ていない。するとケンは書斎まで行って分厚い百科事典を持ち出してきた。
その百科事典のあちこちを調べること5分ほど。おもむろに彼は"Yes, you are right."
といった。
結論としてはクロスワードにはdeduceが当てはまりそうだとなり、パズルは完成した。
へたくそな英語しか話せず、見掛けもぱっとしない東洋人がネイティブである自分が知らない難しい単語の意味を知っている。
この事実はケンにとってはかなりの衝撃だったようだ。
そして次の日の日曜の朝。朝食時間なので、マイクの姉のルーシーもテーブルにやって来た。
そしてそのときの彼女の挨拶が振るっている。
"Good morning, Sir."
"sir"というのはオーストラリアの生徒が先生に対して用いる敬称。日本語で言えば「先生、おはようございます。」ってところだ。
まあなんというか、手のひらを返したような態度の変化とはこのことだろう。
彼女はオーストラリアの知性派が集う大学の学生。知的に優れた人間を敬う心を十分に持っている。
彼女はたぶん父親からクロスワードパズルの一件を聞いたのだろう。
見かけだけで馬鹿にしたような態度をとったことを後悔したのかもしれない。
それにしても、態度変わりすぎやろと思わず突っ込みを入れたくなるほどだった。