澱みのその下で4

コンクリートの斜面に意味ありげな花束を見つけて、あたりの川岸の様子を見てから、上流への散歩コースのほかの場所でも、この場所と同じような危険を感じる場所がいくつかあることに気がついた。
水辺は人を誘う。この場所にも堤防の反対側にある住宅地の住人がよくやってくるようだ。
水深も浅く流れもそれほど急でもなく、一見何の危険もないように見える水辺にも、命を奪うような危険がバックリと口を開けて、獲物を狙っていることがある。
そうした危険をあらかじめ認識するには、観察力とある種の想像力が必要だ。
澱んだ水のその下にあるものを想像する必要があるのだが、日本人にはこの二つ、特に後者が決定的に欠けている。
悪いことが起きることを想定するのを日本人は忌み嫌う。胚胎する危険を口にすることは日本社会ではタブーですらある。
重大な事故が起こってからでないと、何の対策も取らないのは、日本社会のありとあらゆる場面、状況で見られる。
今回の事故で、川に流された生徒たちは、浅瀬で水遊びをしていたようだが、その場所での水遊びはそれが初めてではあるまい。
またこの生徒たち以外にも、同じ場所で水遊びをするものがいたのではないか。
起こりうる事故をまったく想像しないのが日本人だから、大人は水辺で遊ぶ子供を見ても、なんら見咎めることもしない。
こうした大人の態度は若い世代にも受け継がれ、事故を想定しないことが日本社会の基底文化となる。今回のような重大な事故が起こるのは時間の問題であったかもしれない。
事故の後、当分は学校でも、川での水遊びを禁止するような指導があるだろう。しかし、それも一時のことで時間が経てば、指導もおざなりになるに違いない。
喉元過ぎれば熱さを忘れるのも日本人の特性だからだ。