ら抜き言葉3

ここで、可能を表す動詞をいくつか列挙してみる。
1. 食べれる 2. しゃべれる 3. 切れる 4. 着れる 5. 蹴れる 6. 滑れる 7. 考えれる
8. 走れる 9. 着せれる 10. 任せれる

上に挙げた10個の動詞のうち、ら抜きなのはどれだかすぐにわかるだろうか。五段活用動詞以外のものを選べばいいのだが、文法に詳しくないとどれが五段活用動詞か判らないので、ら抜きがどれかすぐにはわからないかもしれない。
正解は1. 4. 7. 9. 10.の動詞だ。
1.の「食べれる」は、ら抜きことばとして、よく例に挙がる。7.9.10.の各語も比較的簡単にら抜きであることが文法知識抜きに指摘できるのではないだろうか。
しかし、4.の「着れる」はどうだろう。「来れる」と同じく、かなりの人がら抜きと気づかず使っていると思う。一覧には挙げなかったが、「見れる」も使用者は多いと思う。
ら抜きがかなり定着しているものと、そうではないものとの違いはなんだろうか。
ら抜きは「尊敬」「受身」の用法と、「可能」の用法との分離の必要性からとか、発音しやすさから、発生すると見られているが、動詞によってその浸透度に違いがあることの説明にはならない。
この点に関し、私はこの差を生むのは、その動詞自体の意味、素性が関係していると見ている。
たとえば、「着れる」はら抜きしない場合、「着られる」となる。しかし、「着られる」は「切る」の受身形の「切られる」とまったく発音が同じだ。
「切る」のほうは五段活用動詞だから、可能を表す場合、「切れる」が使える。
つまり、「切られる」は受身と尊敬の二通りの意味になる。
この受身のほうだが、日本語の受身は英語のそれと違って、被害や不都合を意味する場合がかなりある。「切られる」などがその典型で、被害も相当甚大なものを連想させることばだ。
そのことばとまったく発音が同じ、「着られる」は音から来る連想があまりにも悪く、無意識に使うことを避けられているのだと思う。
私は「着られる」を可能の意味ではもちろん、尊敬の意味でも使うことがない。
可能を表す時は「着れる」だし、尊敬の場合は、「着て見られる」「着用される」などを使い、「着られる」を使わないようにしている。
「見れる」もら抜きで、正しくは「見られる」だが、このことばも頭に「誰かに」をつけると、被害妄想のことばとなり、印象が大変悪い。
このことばも、私は、社会現象や、天体現象に関する、やや硬い文章の時には使うが、普段の話し言葉では「見れる」のほうを多く使う。
しかし、受身形に悪い意味がないようなことば、たとえば、「考える」などでは、「考えられる」に可能と受身の平穏な同居が可能で、まだ多くの人が可能と受身、さらには尊敬も同じ「考えられる」のなかに感じ取れる。
そのため、「考えれる」にら抜きの印象を強く感じるのだと思う。
例としてあげた、動詞の最初の「食べれる」は、ら抜きではない「食べられる」にそれほど悪い連想があるわけではない。人間が何かに「食べられる」という恐ろしい事態は、まず起きることではないから、「食べられる」に可能と受身の同居が続いている。ら抜きの浸透度として「食べれる」は「見れる」と「考えれる」の中間になるのではないだろうか。