ら抜き言葉1

日本語の言葉の乱れの例として、よく引き合いに出される「ら抜き」。昨日の読売新聞のコラム「なぜなに日本語」でこのことを取り上げていた。
コラムの全文は次の通り。

「甘いお菓子ですが、食べられますか」。この文はどういう意味でしょう。食べる人を敬っている?確かに「お食べになりますか」「召し上がりますか」よりも少し軽い敬意の表現をするとこうなりますね。
ところが、「〜られる」には「〜することができる」の意味もあります。相手が甘いものが苦手かもしれないと気遣って、「食べることができますか」とたずねているともとれるのです。「家まで来られますか」「先生は朝早く起きられた」なども、どちらの意味にもとれます。
「書かれる」「読まれる」の「〜れる」も、「〜られる」と同じ働きをします。ただ、こちらは「〜することができる」の場合は、「書かれた」「「読まれた」でなく、普通「かけた」「読めた」の言い方をします。
「〜られる」の方にも、こういう言い方があれば便利ですね。実はあるのですが…おすすめはできません。それは「〜られる」の「ら」を抜く方法です。「食べれますか」「来れますか」「起きれますか」は敬語表現では使わないでしょう。ら抜き言葉は「〜することができる」の意味をはっきりさせるために生まれたという一面もあるのです。(関根健一)

小学生の高学年から中学生の教養のためのページに載ったこのコラムは、年配のコラムニストなどの若者による日本語の乱れを指弾する記事とは違って、ら抜き現象の根幹にあるものをうまく説明している。
言葉は時間の経過とともに変化していく。それまで使われていなかった使用法が出てきたり、以前からある言葉が、違う意味で使われるようになったりすることは避けがたいことだ。
年配層から見れば、そうした言葉の変化にはついていけず、不平の一つでもいいたくなるのも、すでに年配者の部類に入る私としては共感できる。
ただ、言葉の乱れとしてよく槍玉に上がるら抜き言葉に関して言えば、これはむしろ言葉の性質として当然の変化であると感じている。
さらに言えば、このら抜き言葉、今に始まったことではなく、何十年も前からすでに使われており、言葉の乱れを嘆く年配層もなんら違和感なく使っているら抜き言葉がきっとあるはずなのだ。