ら抜き言葉2

読売新聞のコラム、なぜなに日本語のように新聞の記事にも時おり取り上げられるら抜き言葉。ずいぶん以前に、朝日新聞のコラムで取り上げられたことがあり、その記事のスクラップがあったことを思い出した。
スクラップ帳を調べると記事は、昭和52年10月の朝日新聞のコラム、「言葉の整理学」というタイトルで連載されたものの一つだった。
記事はやや長く、文法用語がたくさん出てくるため、日本語文法の基礎がないと理解が難しいが、次に全文を引用してみる。

文法<1> 「見れる」でもいいのか
言葉の文法的なゆれというと、きまってもち出されるのが「見れる」「出れる」「来れる」といったいいかたである。
「できる」という意味を表す可能の助動詞には「れる」「られる」の二種類あり、「れる」のほうは四段活用形(現代仮名遣いでは五段活用)の動詞の未然形に付き、「られる」のほうはその他の活用形の動詞の未然形に付く。ただサ行変格活用動詞の二通りある未然形は、「さ」のほうが「れる」をとって「される」となり、「せ」のほうが「られる」をとって「せられる」となる。
この文法にてらすと、「見る」は上一段活用動詞、「出る」は下一段活用動詞、「来る」はカ行変格活用動詞だから、可能の助動詞は「られる」のほうが付いて「見られる」「出られる」「来られる」となるのが正しく、「れる」を付けた「見れる」「出れる」「来れる」はまちがったいいかたということになる。
が、いまではNHKのアナウンサーまで「サクラもようやく見れるようになりました」などと使っているし、「僕だってそう来れないよ」(武者小路実篤『真理先生』)とか「思想を肉体をとおしてしか見れなくなり」(伊藤整『破綻』)という風に文芸作品にも現れるようになっているのである。
また、実を言うと、ことばの専門家たちは、このいいかたをまちがいときめつけているわけではない。このいいかたは、動詞に可能の助動詞を付けたものと受けとると、その接続のしかたが文法的にまちがっているということになる。が、そうでなくて、「見れる」「出れる」「来れる」という新しい動詞が生まれた、という考え方に立つと、問題は別になってくるのだ。
動詞の中には、可能の助動詞を付けなくても、ちゃんと可能の意味を表せる動詞がある。「読める」「書ける」「飲める」「乗れる」などで、可能動詞といわれる。「読む」「書く」「飲む」「乗る」などの四段活用動詞に、可能の助動詞「れる」が付いた形から発生したのだろうという説と、四段活用動詞に「得る」という動詞が付いてできのだろうとする説があるが、とにかく、四段活用形の動詞の多くは、この可能動詞にして使うことができる。
この可能動詞は室町時代に発生したが、松村明『江戸語東京語の研究』によると、江戸末までは、まだそれほど使われず、可能の助動詞をつけたいいかたのほうが普通だったらしい。が、明治中ごろからは、短くて発音しやすいのと、尊敬を表す助動詞「れる」「られる」を付けた「読まれる」「書かれる」などと区別がつくということから、教則に使われるようになり、今日では、可能の助動詞を付けたいいかたより、可能動詞のほうが優勢になっているといわれる。
「見れる」「出れる」といったいいかたは、その可能動詞に惹かれて生まれた、新しい動詞、という考えかたを専門家は採っているのである。新しいというのは、これまでの可能動詞が四段活用形の動詞から発生しているのに、これらは一段活用形の動詞から出ているからだが、とにかく、新しい動詞という見方をするなら、まちがいというわけにはいかなくなるだろう。
なぜなら、四段活用動詞から発生した可能動詞を認めていながら、一段活用動詞から出た可能動詞を認めない、というのは理に合わなくなるからだ。
ただ、音韻のうえでは、「見れる」といういいかたに不自然がかんじられる。ということはあるかもしれない。
助動詞の「れる」「られる」の語源は「生まれる」の意味の動詞「ある」で、語幹が子音で終わる四段活用形の動詞には、そのまま付いて「る」という形になったが、語幹が母音で終わる他の活用形の動詞には、母音が連続するのを避けて、間にr音を入れて「らる」という形になった、というのが国語学者大野晋氏の説である。
このように「る」(後の「れる」)「らる」(後の「られる」)がそれぞれ付く動詞を選ぶようになったまでには、音韻の長い歴史がある、とすると、音韻体系とは無関係に生まれたいいかた「見れる」が、私たちの音韻感覚からいって抵抗があるのも当然だろう。しかし、いま問題になるのは、文法的には「見れる」をまちがいとはいえないことだ。
(編集委員百目鬼 恭三郎)

上記の記事が出たのが、昭和52年、西暦で言うと1977年だから、実に35年前のことだ。
その時すでに、ら抜きことばに関する正論というべき意見が、大新聞の記事として世間に出ている。
この記事が出てから、数十年後の今、ら抜きことばとして糾弾されるのはほぼ数語しかない。それ以外のことばはすでに、世の中に定着したと考えられる。
「来れる」などはその典型であろう。このことばがら抜きだとは気づかない人のほうが多いのではないだろうか。
私も、尊敬を表す時には、「来られる」を使うが、可能を表す時には、「来れる」を使い、「来られる」を使うことはもはやない。
明治の中ごろに、四段活用動詞に生じたことがそのまま、一段活用動詞の多くにも起こった、つまり、「尊敬」と「可能」の意味の使い分けの必要から一段活用動詞にも、可能動詞が発生し、定着したのだ。