天の配剤

表題の言葉はネット辞書によれば「善因善果・悪因悪果」と同じような意味だそうだ。
私が犬や猫の保護をしているときに時々感じることがあり、そのこととこの言葉の意味には違いがあるのだが、他の言葉では表しようがないので、一応この言葉を当てておく。
どういうことかというと、ある犬なり、猫なり、その子との出会い方が偶然ということだけでは、なかなか説明が付かない出会い方ばかりということだ。
まるで、そうなるように誰かが仕組んでいるというかなんというか。
たとえば、3ヶ月前に捕獲して、今うちにいる猫のシロの場合、私がシロを見かけたのは、今年の7月のはじめのこと。
私の部屋の窓を開けたとき、細い路地を挟んで北側にあるおうちの庭を歩いて通る白い猫を見かけた。
それまでに見かけたことのない猫だったので、ちょっと気になったが、それはそのとき限りのことで何日かが過ぎた。
そして、数日後に夜の河川敷道路でまたその猫を別の日の数回に亘って見かけた。
さらに数日後、たまにしか行かないスーパーになぜか行く気になって、そこで迷子猫の張り紙を見た。
その猫の特徴が、私が見かけた白い猫に似ている。迷子猫を飼っているお宅は家から3km近い距離がある。
いくらなんでも、その距離を移動して家の近くにやってきたとは思えなかったが、念のために張り紙に記してあった電話番号に連絡してみると、驚いたことに、その家族はちょっと前まで、私の住む地域のアパートに暮らしていたという。
迷子になった猫も、アパートの直ぐ近くの、河川敷からも直ぐのところの公園で拾った猫だというではないか。これはひょっとしてと思って、河川敷に出没する白い猫を実際に見てもらうため、夜の8時ごろにわざわざ来てもらった。
しかし、間近で見ても迷子になった猫かどうか分からないというので、河川敷にトラップを仕掛けて、捕獲することにしたのだ。
捉えてみたところ、迷子猫ではないことが分かったが、迷子になった時期といい、白猫ということといい、迷子の猫との出会いの場所といい、こんな偶然の一致があるのだろうか。
たまにしか行かないスーパーに行く気になって、そこで迷子猫のポスターを私が見たというのも偶然だが、偶然があまりにも重なると、もう偶然とはいえないような気がする。
私がスーパーで、迷子猫のポスターを見かけなかったら、迷子の猫が白い猫でなかったら、迷子になった時期がずれていたら、迷子猫の家族がもともと私の地域に住んでいなかったら、など、どれかひとつでも違っていたら、シロは今、私の家にはいないだろう。
犬や猫を保護するに至る経緯は、それぞれ違っているが、私の場合、何らかの大いなる意思が働いているとしか思えない場合があまりにも多い。
こういう場合も「天の配剤」と呼べることにすると、私と同じように、出会った動物たちを保護して飼っているほかの人たちの場合も、似たような「天の配剤」が働いているように感じる。
家と同じようにたくさんの動物を飼っている人のブログをよく読んでいる。その人のうちに持ち込まれたのが、まだ授乳期の子猫。
その子猫が持ち込まれる少し前に、別のもう少し大きくなっている子猫がそのお宅にやってきて、飼ってもらえることになっていた。
いきなり二匹の猫が増えたが、最近では、はじめにやってきた猫が、後からやってきた子猫のいいお姉さんになって、子猫の相手をしているようだ。
人間の世話だけでは行き届かないことを分かっていて、あらかじめ、そのお宅に母猫代わりの子猫を天が送り込んだ?
これはもう「天の配剤」と呼ぶしかないとおもう。