知性が大事35

捕鯨国としての立場は、たいてい次のような論拠に基づく。
1. 捕鯨は伝統的食文化である。
2. 食品としてのクジラは貴重な蛋白源である。
3. 資源としてのクジラは頭数が十分であり、継続して行うことのできるものである。
私の述べた捕鯨継続の論拠もこれに沿ったものであった。
こられの論拠に対して、クラス中の生徒が寄ってたかって囂々たる非難を浴びせ始めた。
まさに四面楚歌、十字砲火。
1.に対しては,伝統であることが行為の野蛮性を少しも正当付けるものではないと非難。
2.の貴重な蛋白源というのは,食品がこれしかないのならともかく,戦後の高度成長を遂げた日本が現在、主張に用いるべきものではないと反論。
3. 海洋生物の生息数は補足が困難で、まして、調査と称して捕獲によって頭数の推定を行うなど論外。
これらの反論に対して,十分な再反論はなかなか難しい。
1. の伝統的食文化など,伝統が大好きな日本人なら,これだけで十分な論拠であろうが,伝統ということと,それが今後も続けていくべきかどうかとは別のことだ。
2.や3.の反論に対しても論理に基づく再反論がうまくできないので,私は文化論で対抗するしかなく,「それぞれの国には,それぞれの価値観に基づく文化というものがある。お互いの国が他の国の文化に対してはそれなりの敬意を払うべきではないのか」といった、いわばすり替えの議論に持ち込むしかなかった。
これに対しても、「たとえ他国の文化であっても国際化が進んだ今日では,倫理に反する行為を容認することはできない。捕鯨は明らかに倫理に反する行為であり,これを看過することはできない」と来た。
もうこうなると、やけくそ。「やいやいお前ら、よってたかって,人の国の文化にけちをつけやがって,一体何様のつもりだ」といったようなもう議論などではない、ただの売り言葉に買い言葉のけんか腰の言動を吐く始末。
捕鯨擁護の意見を述べるあたりから,私は席を立ちっぱなしで,頭からは多分湯気が立ち上っていたと思う。
もともと短気な私は、もう完全に切れてしまい,議論をするような平静な気持ちは完全にうせていた。
クラス中に怒号が飛び交う事態となって,担任のスコットが止めに入った。
「日本人の考え方はよく分かった。これは、国による価値観の違いが根本にある難しい問題のようだ。捕鯨に反対の人たちもこの点は理解したと思う」といって,この議論をここまでにしようといった。
腹の虫が収まらなかったが、私はようやく自分の椅子にすわってスコットの言うとおりにした。
私はカタンニン高校の図書館にある本で、この時点ですでに反捕鯨国の考え方を理解していた。ことはクジラに関する根本的な価値観の違いにあるわけで、スコットの言うとおり、困難な問題に違いない。
しかし、その困難さはどうやら,反捕鯨国の側の問題ではなく、日本,あるいは日本人のほうの反捕鯨国の考え方を理解するほうに当てはまるように思えてきた。
ちなみに、上記の激論と同じようなことが国際的組織のIWCの総会でも起きるらしい。
つまり、日本の主張に、一部の国をのぞく,ほとんど全世界から日本の代表が十字砲火を浴び,火達磨になるということだ。
授業が終わり、教室を出るとき,ドイツ人の生徒が私に,「授業では議論の成り行きで君の意見に反対したが,君はまだぼくの友達だ」といった。
周りの何人かもこの意見に頷いていた。
私のほうは、いまだ怒りが冷め切らず、かっかとしていたのとは大違いの大人の態度。議論のうえでも精神的にも、まさしく完膚なきまでの敗北だった。