父方の先祖2

島原の乱は九州を中心に広がっていったキリスト教信仰に対する弾圧という一面を持つ。反乱に加わったものは、キリスト教信者だけではなかったから、純粋にキリスト教対幕府という構図ではなかったようだ。
それはともかく、キリスト教は、1549年、フランシスコ・ザビエルによって、日本に伝わったとされている。
その後のキリスト教布教は苦難の歴史をたどることになる。その苦難の歴史の一端に、甑島も関わりがある。
ネット検索である紀行文を見つけた。その紀行文の中に、次のような記述がある。

慶長七年(一六〇二年)、下甑村長浜に上陸した五人の宣教たちが元和八年(一六二二年)長崎で殉教したことは前に述べたが、それから十五年後の寛永十四年(一六三七年)には、益田四郎時貞(天草四郎時貞)率いる、史上名高い島原の乱が勃発した。
  天草、島原から甑島までは、天候のよい季節なら船でほんの一息に過ぎないから、島津藩が天草、島原方面の信者と甑島内の信者との直接間接の連帯を危惧したことは推測に難くない。翌年の寛永十五年(一六三八年)になると、甑島キリスト教徒は必然的に厳しい弾圧を受けることになった。捕らえられた島内のキリシタンは、この釣掛崎一帯で斬首などによって処刑されたといわれている。「キリシタン殉教の地」という碑は、その受難の史実を後世に伝えるために建てられた。その苛酷な取り締まりが始まって以降、甑島からは、表向きにはキリスト教徒がほとんど姿を消すことになった。釣掛崎とか手打とかいう変わった地名に、キリスト教徒や一向宗徒の処刑との関わりを読み取る郷土史家もあるというが、そのあたりの関係はいまひとつ定かでない。
  それから四年後の寛永十九年(一六四二年)には、ローマのキリスト教本部のルビンをはじめとする宣教師五人と日本人、インド人、ポルトガル人の計八人(ただし、薩隅日地理纂考には「日本人三人ありて、南蛮人六人を擁護し」とある)が大串海岸に上陸、一時的に付近に隠れ棲んだという。島民の通報でほどなく彼らは捕らえられたが、記録によると金一貫七十銭と銀六百三十六銭を所持していたという。ルビンらの一行は長崎に送られ、翌年四月、拷問の末に処刑されている。

筆者は幼児期から中学生の頃に、甑島で生活をした経験があり、自分の原風景を形成した甑島にかなりの思い入れがあるようだ。
甑島に関する紀行文はそれほど多くはないだろう。この筆者による紀行文は甑島の歴史を知る上でも貴重なものに思う。次にリンクをつけておく。
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_9.htm