K君に対して自分の負けを認めたあとで、もうひとつ思ったことがあった。
K君の例の涙もろさだ。それまで、よく泣くのは単に弱いやつだからと思ってたのだが、そうではないのではと思い始めたのだ。
大人は男でも泣く事がある。本当につらいとき、人に心底共感するとき、感激したときなどに泣く。
これはそれだけ様々な経験を積んできた大人だからこそということは理解していた。
ひょっとするとK君が泣くのは、大人が泣くのと同じ理由ではないのか。
彼の家は貧乏だと聞いている。貧乏な家庭の家計の少しでも足しになるように毎日新聞配達をしているという。
彼の日常は、何の苦労も知らないほかの生徒たちとは比べ物にならないほど厳しいのではないのか。
普通では、何十年もかかって経験するような人生の辛酸をK君は、小学5年生で、すでに舐め尽くしてしまったのではないか。そう思えてきたのだ。
だとしたら、K君が泣く事をあざける事は、人間が誰しも、長い人生の中で、身に着けるべき他者への思いやりや、共感力に対する冒涜ではないのか。
そう思った私はある決意をした。
それは、今後一切、K君が映画鑑賞会で泣いても、それをあざける事は止めようと。
そして、K君が泣く事を誰かが馬鹿にしたりしたら、この俺が許さんと。
ちなみに私はこのとき、学級委員だった。上記の決意は言ってみれば、学級委員としての使命感の部分もあった。
K君がいじめを受けるような場面に、彼をいじめから守るような行動に出たわたしに、ほかの男子生徒は戸惑ったに違いない。
何しろ、ちょっと前まで、むしろ率先していじめていたやつが突然、擁護するようになったのだから。
いじめられっ子をかばうような行動はかなりのリスクを伴う。かばった生徒も、それ以後、いじめの対象になるからだ。
私の場合は、私が学級委員だったことから、表立ってのいじめはなかったが、ほかの生徒たちと私の間に微妙な緊張関係が生じるようになった。
そもそも、私が学級委員になったのは、同級生が選挙して私を選んだのではなく、担任のT先生の一存で決められたものだった。
同級生の信任を得ての学級委員ではなかったから、私が学級委員であることを快く思わない男子生徒が少なからずいたはずだ。
その不満がK君を巡る事態で一層、くすぶり始めたのだ。
私とK君 vs. そのほかの男子生徒というある種の対立関係。この緊張した関係を大いに揺るがす事態がこの後起きた。