ペットとの別れ

オカメインコのオカちゃんの里親さんから、近況を知らせるメールが届いた。飼っていた青色のセキセイインコが亡くなったとのこと。里親さんのところに引き取られたオカちゃんのお気に入りだった子だ。

ペットとの死別は、そこまで面倒を見て飼い主としての責任が果たせたといえることなので避けては通れないものだ。

しかし、そのときの飼い主の悲しみは、愛情を注いだ分に比例して大きくなる。

このことに関して、4月21日付の読売新聞「人生案内」に次のような相談が寄せられ、作家のいしい しんじ氏の回答が大変、心打つ内容であった。

相談のタイトルは「愛犬の最期みとれず後悔」で、ペットは犬だが、犬に限らず、あらゆるペットの飼い主にとっても心が動かされる回答だと思う。

そこで相談内容とその回答を引用してみる。

10代の女子大生。飼い犬が16歳で亡くなりました。

さいころから一緒だったのに、自動車免許の合宿中で亡くなる時にそばにいてあげられませんでした。

亡くなる前日にテレビ電話で名前を呼びましたが、どこで呼ばれているのか分かっていないようでした。そばで呼んで目を合わせたかったです。合宿の出発前も「行ってきます」と言って、少しなでただけ。もっとなでて、ありがとう、大好きだよって言ってあげたかった。亡くなる直前、家族の顔を見渡すと、ずっと私を探していたそうです。

老犬ですが、とても元気だったので、合宿の2週間の間に亡くなるなんて思いませんでした。亡くなる前にテレビ電話したり、手紙を書いてひつぎに入れたり、できることはしましたが、後悔の気持ちが消えません。最期をみとることができず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

この相談内容に対する回答は次のようなもの。

犬はことばを使わない。だから、最初から最後まで「ぜんぶ」わかっている。

犬は、年を数えない。16年ではなく、ただひとかたまり、光みなぎる生を、全力で過ごしてきた。

テレビ電話、手紙、そして、祈り。犬はきっと感じている。最後まで心を砕いてくれた、そんなあなたと一生を過ごせた、限りない幸福を。人間の想像が及ばない、生の「ぜんぶ」を、全身で受けとめて。

初めて家にやってきた日、梅雨の散歩、リードをすり抜けての行方知れず。

その都度、僕達は慌てふためき、面倒がり、不安に駆られ喜びを爆発させる。いっぽう、犬はいつも笑っている。ぼくたちははっと我に返る。犬は、人間にとっていつも、心の深みをうつす「かがみ」でありつづける。

きっと後悔は消えない。。

それもあなたの、大切な感情だ。ただ、胸の痛みとともに、あの嬉しげな顔、駆けてくる姿、はしゃぐ吠え声も、一生涯、あなたの胸から消え去ることはない。

覚えているだれかがいるかぎり、ひとは真に死なない。それは犬も同じこと。

あなたが生きているかぎり犬も生きる。それぞれの犬に恥かしくない生を、ぼくたちは、歩みつづけていければと願う。

回答者の回答は実際の経験に基づくものに思える。愛犬を失った深い悲しみから立ち直るための、回答者自身が得た心の持ちようをそのまま相談者への回答としたのだろう。

先にも述べたとおり、相談は愛犬との別れに関してだが、回答にある心の持ちようはペットが犬であれ、猫であれ、小鳥であれ、どんなペットにも共通するものだと思う。

私自身、これまでいくつものペットとの別れを経験してきた。

その都度、ある種の後悔がいつもあった。病気で死んだ場合など、自分の飼い方に問題があったのではないか。生きている間にもっと優しくしてやればよかったなど、後悔のネタは次から次と心に浮かび、果てしない悲しみの淵に沈む。

いしい氏の回答はこうした悲しみから抜け出す一助になるように思う。

オカちゃん、今度は黄色のセキセイインコにぞっこん