ゼロの神話3

あるとき、就職した建設会社の役員名簿を見ていて、ある人物の略歴に目が留まった。
その人物とは、総務部長のHさんだった。Hさんは私が会社に入ったとき、すでに60代後半か、70代に入っていたのではなかろうか。
HさんはM重工業を定年退職し、再就職先が私の就職した会社だったのだ。
私が注目したのは、Hさんの略歴の中に、空技廠(くうぎしょう)の文字があったことだった。
空技廠などといっても、その名を知る人が今の日本に、どれだけの割合でいるだろうか。空技廠とは、昭和7年(1932年)、山本五十六によって海軍に設置された、航空機に関る研究、開発を行う機関だった。
所属する研究者たちは、まさしく当時のトップエリート、今なら、JAXA所属の研究者というところだろうか。私にとっては驚くべき経歴の持ち主が身近にいたのだ。
とはいうものの、所属する部署が違うし、相手は部長、気軽に口を利ける相手ではなかった。
ところが、社員旅行の折、H部長と話をする機会が訪れた。目的地まで、バスを利用してのツアーだったが、H部長の隣の席は誰も座ろうとするものがいなかった。
社員たちとは、年齢の差が大きかったし、標準語を話し、時おりべランメー調も入るHさんは、関西出身の多くの社員にとって、話しづらい相手だったからだろう。
しかし私にとってはこれが勿怪の幸い。Hさんの横に立って、Hさんに声をかけた。
「隣の席、空いてますか。」
「ああ、空いてるよ。目的地まで、誰も話し相手がないんじゃないかって、思ってたところだ。」
「私のような若輩者でよければ、話し相手になりますが。」
「エーと、君は営業部のMさんだったかな。」
「そうです。中途採用ですので、まだ会社のことについて右も左もわかっていません。これを機会にお見知りおきを。」
「君はしゃべりかたになまりがないね。」
「出身はこちらですが、大学は東京のC大でしたので、その時に訛りは徹底的に矯正しました。」
「そうか、大学時代は東京にいたのか。」
「ぶしつけなことをお聞きしますが、H部長はT大の工学部を卒業されて、その後すぐに空技廠に入られたそうですね。役員名簿の略歴を見て知りました。空技廠ではどういうことをされていたんですか。」
「私は発動機が担当だった。航空機のエンジンだな。」
「ひょっとしてそれは、ゼロ戦のエンジンの栄(さかえ)とか、誉(ほまれ)とかいうあれですか。」
「栄や誉は、量産型のエンジンだが、その原形となるエンジンを空技廠で研究していたんだ。」
戦闘機オタクだった頃に、疑問に思っていたことに答えられる人物にドンピシャに遭遇してしまったのだ。
この機を逃してなるものか。積年の疑問をHさんに、ぶつけてみることにした。
ゼロ戦は、太平洋戦争が始まった当初は、高い航空性能で他国の戦闘機を圧倒したようですが、大戦末期には性能的に他国機に遅れを取るようになりましたよね。大きな原因が、エンジンの出力不足にあるの思うのですが、大出力エンジンを空技廠などで開発しなかったのはなぜなんでしょうか。」
この質問に対するHさんの答えは、私の日本人全体に対する見方を大きく変えてしまうほどの内容だった。