語彙力とは3

それは、ニューギニアのジャングル奥深く暮らす、食人種と間近に接したレポーターの書いたものだった。
記事が出ていたのは1996年10月号のリーダース・ダイジェスト。雑誌をぱらぱらとめくってみると、一部の記事には書き込みや、ピンク色のマーカーで印がつけてあって、読んだ形跡があった。
しかし、この記事には読んだ形跡も、またその記憶もなかった。
こうした一種の紀行文タイプの読み物は、当時読むのが苦手だった。理由は先の読めない内容だと、理解が困難だったからだ。
こうした内容ものが気軽に読める読解力をつけたいと思いながら、実際に読み始めると、内容を理解するのに疲れてしまい、直ぐにギブアップしていた。
日本語に訳すことなく、頭から順番に読み進め、文脈に沿って理解をしていくのが理想とわかっていても,これがなかなかできない。
日本語に訳すことなく読み進めるなどといっても,英単語の覚え方も,英文の読み方もまず日本語に置き換えてからという学習方法を続けてきた頭には,英単語を見た瞬間にもう無意識のうちに日本語に置き換えて理解している。
これをしないようになどといっても、自動的にそうした頭脳回路が起動してしまうのだからどうしようもない。
この方式では、英文を逐一全部読んでいたのでは,頭脳回路が直ぐオーバーロードになってしまい,疲れてしまう。
先の展開が読めるようなものだと、単語の中から、キーワードだけを拾い読みするだけで,十分内容について行ける。
そして、結論的な部分だけに意識を集中させれば全体構造の理解はおおむねできてしまう。
大学入試の英語長文読解問題なども,私は全部これでやっていた。問題文を頭から順番に理解していくことなど、一度もしたことがない。
大体、入試の問題などは,評論文などの論理性を重んじた,起承転結のある内容のものばかりといってよい。
そこで展開される内容、主張は、日本語の評論や記事で、すでに接したことのあるようなものばかりだ。
設問は、ほとんどが下線部和訳。キーワードだけを拾い読みし,内容の展開を過去の知識から類推して,下線部の和訳だけに全神経を注げば,いつでも合格点だった。
これは英語を読んで理解したのではない。そんなことは自分自身が一番良くわかっていた。
英語の点数はよくても、実際には、英語の読解力などゼロに等しかったのだ。