知性が大事#16

マギーの夫、テッドはカタンニン高校の理科の先生。彼の家に滞在中のある日、テッドにガムツリーの種を集めに行くので、一緒に来ないかと誘われた。
ガムツリーとは、オーストラリアの固有種、ユーカリの仲間の植物を総称的に呼ぶときの名前だ。
早い話、オーストラリアの木本類はほとんどガムツリーだ。この種の植物抜きにオーストラリアの生態系の存続はありえない。
種を集めてどうするんだと思いながらも、ボブとメグも連れての種集めに私もついていくことにした。
車で出かけた先は、何にもないオーストラリアでよく言う「ブッシュ」。潅木がまばらに生えている荒涼たる場所だ。
オーストラリア観光を勧めるCM等では、その自然の豊かさを強調したものばかりだ。しかし実際のところ、オーストラリアは巨大な乾ききった大地がそのほとんどを占める。
まばらにしか木々はなく、それもやせ細って背もあまり高くないガムツリーが所々に生え、ブッシュと呼ばれる背の低い潅木がその周りに、これもまばらに生えている。オーストラリアといえばカンガルーだが、実際にその姿を見ることはほとんどない。
それがオーストラリアの自然の現実だ。
一体そんな場所で何をしようというのだ。現場についてみると、テッドの家族以外にも何人かがガムツリーの種集めにやってきていた。
テッドに聞くと、これはオーストラリアの自然保護運動の一環なのだという。
やせ細った大地に、まぱらにしか生えていない植物。当然ながら、このような植生の脆弱性は疑いもない。
ほんのちょっとした人間の自然への干渉で、簡単に崩れてしまうものだろう。
テッドの話によると、そうした場所への人間が与えるマイナスの影響はコンスタントなものだ。
これをキャンセルするために、ガムツリーなどの生態系の要の植物の種を、ある一定の時期に集めておいて、今度はそれを種の発芽適期に種を採集した近辺に植えていくのだという。
種の採集地はあらかじめ立てられた計画に従って行われ、集められた種はきちんと採集地ごとに違う袋に入れて保存するのだ。
適当にあちこちから種を採ってきて、適当に木の少ない場所に蒔いていくというような場当たり的なものではない。
この自然保護運動はオーストラリア全土で、それぞれの地域に住む、地元のボランティアの協力によって行われているという。
集めた種は、採種した同じ場所にまかなければならないというのはなぜなのか、その時点ではよく分からなかった。
比較的最近といってももう10年ほどの前のこと、NHKの教育テレビの番組で、宮脇昭という植物生態学者の講座を見たことがある。
その番組で彼が使った「ホンモノの森、ニセモノの森」という言葉で、ようやくオーストラリアでの自然保護運動の意味が分かった。
壊れた生態系の再生などというが、生態系はそれ自体がひとつの大きな生物のようなもので、死んだ生物が生き返らないように、失われた生態系はもう二度と再生しないのだ。
植林する場合でも、元の植生とは関係のない植物を植えてはいけない。そんなものを植えつけた森は、「ニセモノ」なのだ。
さらに言えば、同じ種の植物でも、DNAのレベルでは、違う地域のものは違うDNAを持っている。そのため、その土地に生えているもので、植林を行う必要があるのだ。
丘ひとつ越えただけで、同じ種の植物でももうDNAは微妙に違うという。
オーストラリアでの自然保護運動は、私が滞在していた頃、すでにその事を十分に考慮した上での運動だったのだ。
テッドと一緒に行った場所のある所に、ほんのわずかの水が流れていた。小川とすら呼べないようなほんの少しの水。
しかし、そのわずかな水面を掠めるように何かが飛んでいる。よく見るとそれはイトトンボの仲間だった。
私がイトトンボに気がついたことを見て、テッドが私に近づいてきた。
「これは "damselfly"というんだ。こんなほんのわずかに水のある場所に親が卵を産み、やがてはその幼虫が水から上がり、近くのガムツリーに登ってきて羽化する。彼らにとっては、このわずかしかない水と、水辺近くに生えているガムツリーがなければ子孫を残していけない。」
そういって彼が指差すほうを見ると、近くのガムツリーの幹には、イトトンボが羽化した後の半透明の抜け殻がたくさんぶら下がっていた。
「"damsel"とは若い女性のこと。古い英語で中世の物語などに出てくる。」そういって、手に取ったイトトンボの抜け殻にふっと息を吹きかけた。抜け殻は音もなく、その形が崩れ、彼の手から離れた。
そのもろさとはかなさはオーストラリアの生態系の脆弱性を象徴するかのようだった。