父方の先祖3

甑島の受難の時代はまだ続く。次にWikipediaの「甑島」の項目の一部を引用する。

薩摩藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ、薩摩藩南蛮貿易の中継基地にもなった。甑島列島は天草や長崎と同じくキリシタン文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた島原の乱の残党35人が処刑されて殉教した。1780年代の天明の大飢饉の際には、下甑島の百姓が出水(現出水市)に、郷士48戸が笠野原台地(現鹿屋市など)に集団移住した。江戸時代には薩摩藩浄土真宗を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった。

圧政や弾圧の原因になった事由は様々だが、住民がその事実を他には漏らしたくないようなものばかりだ。
現在の甑島の人口は著しく減少しているという。上記引用にも、飢饉の際に島民が移住したことが述べられているが、近代になっても、人口の流出は止まらなかったようだ。
しかし、移住した島民が自らの出自についてはあまり語りたがらなかったのでなかろうか。
甑島知名度は恐ろしいほど低い理由については、こうした歴史的いきさつが大いにかかわっていると私は思っている。
また上記引用には、この島が、薩摩藩南蛮貿易の拠点になっていたことが述べられている。
長崎の出島が江戸幕府南蛮貿易の拠点であったことは学校の歴史でも習う。しかし、薩摩藩独自の南蛮貿易の拠点がこの島にあったことは習うことはない。
江戸時代に鎖国政策がとられるようになると、諸藩独自の海外との貿易は禁じられた。
それにもかかわらず、薩摩藩はいわゆる抜け荷(密貿易)を続け、それによる蓄財が幕末の幕府との戦いの資金源となったとされる。
島が南蛮貿易の拠点であったことを考えると、抜け荷の拠点もここにあったと考えるのが自然だ。
もし、それが事実なら、薩摩藩は幕府にその事実が藩の外に漏れないように、島民による移住の禁止や、緘口令を敷いたに違いない。
抜け荷のことに関しては推測の域を出ないが、これが事実とすれば、明治時代になっても、外に対しては、島の秘密を守るという島民の習性は変わらなかっただろう。
私の曽祖父にあたる人が甑島出身で、その後何らかの理由で島を離れ、鹿児島本土に移住したらしい。
しかし、その事実や、島を離れた理由に関しては、自分の子供にも伝えておかなかったようだ。島民であったことも、何かの機会にちょっと口を滑らす程度だったようで、私の曽祖父からすれば、孫にあたる父も、移住の事実を大きくなるまで知らなかっと語ったことがある。