自己責任2

日本の乗馬クラブには、行ったことがないから、どんな様子なのかは知らないが、乗馬と言えば、今でも、ハイブラウな金のかかるスポーツとして、受付もそれなりに小奇麗で金のかかった調度、乗馬競技の優勝トロフィーなどが置いてあるイメージだ。
そういったイメージを持ってやって来た当地の乗馬クラブの受付は、まさに小屋という言葉がぴったりの場所だった。
受付をしていた男性は、ごついガタイの男性で、乗馬のインストラクターも兼ねているという。
乗馬をしたいというと、受付の男性は一枚の申込書を私たちの一人一人に手渡した。内容を読んだ上で書名欄にサインしろと言う。
私たちを連れてきてくれた先生は、クラブのそうした手続きもよく知っているらしく、手早く、申込書に署名した。
私も、署名しようと思って申込書を見ると、そこには単なる申し込み書とは明らかに違う何行にも亘る文書があった。
わけのわからない文が書かれてある文書にうっかり署名してはいけないのは、日本も海外も同じだ。
書かれてある内容に目を走らせて驚いた。法律文書のような硬い文体の文書のなかに、"seriously injured, permanently maimed"というような単語があるではないか。
とどめは、"killed"という言葉。
内容は要するに、乗馬中に不測の事態で、乗馬者がいかなる障害を負っても、またその事故に起因して、死んだとしても乗馬クラブとしては責任を負わない旨の同意書だったのだ。
内容の深刻さに署名をためらっていると、先生が、乗馬には受付の男性がインストラクターとして、安全に乗れるよう指導してくれるし、私も乗馬は得意だからちゃんと教えてあげる。だから心配せずに署名するようにと促した。
そういわれれば、後に引くわけにはいかない。オーストラリアで日本文化の紹介授業を受け持つということは、私の行動、一挙手一投足がそのまま日本人を代表することになるのだ。
内容に怖気をふるって同意書に署名しなかったとなっては日本人全体の名誉に関わる。
同意書に署名した後、念のために受付の男性に、同意書にあるような深刻な事故はよくあるのかと聞いてみた。
すると、"Not often, but it does happen rarely."と、いたって冷静なお答え。日本でなら、こうした質問に、「事故なんかありませんよ」などと客を安心させるような回答で、事実をごまかすところだろう。
この回答に驚いた表情の私に、先生は「だいじょうぶよ。そんなこと滅多にないんだから」といって私を安心させようとしたが、「滅多にないって、やっぱりあるんじゃないか。全然慰めになってないよ」と心の中で思った。
心に一抹の不安を抱えたまま、私たちは受付の男性に促されて、乗馬用の馬がいる厩舎のほうに向かった。