何がどう「寂しい」のか

NHKの朝のバラエティーを久しぶりに見た。金曜日は園芸のコーナーがあり、これも久しぶり。
この園芸コーナーを見ていたときのこと。講師の男性が春の草花を使って寄せ植えをしていたのだが、「(鉢の)土が見えていると寂しいので」という表現を使った。同じせりふをアシスタントの女性が繰り返したので、聞き間違いではない。
「土が見えているから寂しい」とはどういう意味なのか、了解不能の表現にしばし、その意味を考え込んでしまった。
そこで、「寂しい」の意味をネット上で使える国語辞典で調べてみた。参考になったのは、Excite辞典。
その説明を引用してみる。

1. あるはずのもの,あってほしいものが欠けていて,満たされない気持ちだ。物足りない。さみしい。 「彼の顔が見えないのは−・い」 「タバコをやめると口が−・い」 「ふところが−・い」
2. 人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。 「独り暮らしは−・い」 「知らない土地で−・い生活を送る」
3. 人けがなくひっそりしている。心細いほど静かだ。さみしい。 「 − ・い夜道」 「山奥の−・い村」

知っているつもりでも、改めて辞書を調べてみると、意外な発見をすることがある。
上記の2.や3.の用法はよく知っていたが、1.の意味の用例3つが心の満足感という点で共通していたとは新発見だ。
すると、「髪の毛が寂しくなってきた」という使い方も1.の場合にあたるのだろう。
私はこれはてっきり、髪の毛が少なくなってきて、頭の天辺あたりが寒気に当たると薄ら寒く感じることだとばっかり思っていた。寒いという物理的感覚なのではなく、心理的非充足感だったのだ。
改めて、「土が見えていると寂しい」とはどういう意味かと考えるに、まだまだ、たくさんの草花を寄せ植えにするスペースがあるのに、鉢土が見えるぐらいの数の植えつけでは物足らないということなのだろう。
それならそういう風に表現すればいいのにと思うのだが、どうやら当方に「寂しい」という表現に対する共感や、理解が不足していたようだ。
大体、ひとつの鉢にてんこ盛りに、ぎゅうぎゅうにさまざまの植物を押し込んで植えつけるということに、窮屈さを感じて好きではない。
複数の植物をひとつの鉢に植えつける場合でも、必ず、植物どうしくっつきあわないように、スペースを空けるし、また植えつける位置も幾何学的に整然としたものにする。
植物それ自体も、幾何学的に整然と整った姿のものを美しいと感じる。
多肉でも、サボテンでも、子株がいくつも生じた群生ものを好む人が多いようだが、私は好きではない。
こうした感性からすると、寄せ植えの鉢の土が見えるから寂しいと感じる、その感性がないわけで、感性が欠如がしている上、言葉の理解も足りなかったわけだ。
私の場合、「寂しい」ことを「寂しい」と感じる感性が、他の人に比べて「寂しい」ようだ。