語彙力とは8

長距離走というのは、いくら健康に問題なくてもできるとは限らない。
私はこの長距離走というのが苦手で,5km以上を連続で走ったことがない。若く、健康にも問題がなかったときでも5kmぐらいが限度で、それ以上の距離だと、息が上がって限界になってしまう。
毎日練習すれば、ちょっとは走れる距離が伸びたかもしれないが,好きでもない長距離走の練習を毎日するなど問題外だ。
健康のためとか、さらにマラソンの選手が練習のために毎日走るなどというのは,私からすればもう、想像の埒外(らちがい)だ。
そういう練習ができるというのは、そこに何らかの楽しみを感じることができるに違いない。なんにでも適正というのがあるのだろう。
読書持久力にも長距離走と同じようなことがあるのかもしれない。
勉強のために仕方なく読むものと違って、それ以外の読書は、読書自体に何らかの楽しみがあるからだ。
物語であれば、ストーリーに沿って,場面がありありと想像でき、主人公なり、感情投影できる登場人物の気持ちに寄り添えることが読書の楽しみとなる。
もし、これができないとしたら、つまり、文字を読み、そこから視覚的な場面の想像,感情の励起というのが起こらないとしたら、本というのはただの文字の羅列に過ぎなくなり、読書などは退屈極まりない行為になるだろう。
連続して20分も続けることはできないと思う。
これができるようになるには、読書を続けるしかないのだろうが、これもやはり適正があって、直ぐにできるようになる人もいれば、なかなかできない人もいるのだと思う。
さいころから本が好きだった私にすれば、これまで、本を長時間読むことが苦手な人がいることなど、まったく想像すらしたことがなかった。
長距離走と違って、他人の頭の中のことはまったくわからない。
母国語の日本語でさえ、長い文章を読み通すには,単に単語の意味を知っているとか,難しい理屈が理解できるというだけではだめだということになる。
これが母国語でない英語だと,さらに困難なことになるのも当然だ。
私が英語を読むときには,単語の意味や、語句の意味を日本語で考えることはなくなっている。
引用したリーダース・ダイジェストの記事の場合だと読み始めの数行で、もう私の意識は主人公が突き進むジャングルの中にある。
鬱蒼としたジャングルは薄暗く、腰までの高さの泥濘(ぬかるみ)の水は真っ黒でそこには何が潜んでいるかわからない。
体にまとわり付くしつこい蚊は、マラリアの病原菌を持っているかもしれない。しかし、それでもこれから会いに行く人食い人種との接触への期待が自分を駆り立てる。
英語を読んで、いちいち単語や語句の意味を日本語で考えたり、文の構造を解析していたのでは,そこで語られている場面に自分を置くこと困難だろう。