日本人に英語

このブログでは、ときどき英語に関する記事を載せる。
これは、私が地元の公民館で、何人かの生徒さんに英語を教えているからで、その人たちの英語学習の一助にと思ってのことだ。
その学習は、いわゆる英会話ではなく、中学、高校でやったような訳読や英作文といった内容だ。
そして、その学習の中でかなりの時間を占めるのが英作文。題材にするのは、私が見つけてきた新聞の記事。
なるべく英作文しやすそうなエッセーを選んでいるが、それでも実際にやってみるとこれが難しい。
学校でやる英作文は、正解として英語が先にあるものを日本語にして出題している。これは入試でも同じだ。
先に正解があるから、生徒が作る英語はそれを基準に採点すればよい。
しかし、英語にすることを前提にしていない、それもプロではない書き手による日本語は、日本語としても欠陥があることが多く、これを英語にする場合、思いもかけない難しさに直面することが多い。
そして、英作文の難しさはなんといっても、英語と日本語の言語上の性質があまりにも違う点に胚胎する。
英語から日本語に訳す場合、私たち日本人はそれを使った表現になれているから、自分たちの納得できる形に自由に訳を変えることができる。
そのため、比較的、理解がしやすく感じる。
これがその逆の日本語から英語への変換となると、英語には日本語にはない言語的要素がたくさんあり、これらへの無理解、無知が障害となって変換が困難になる。
英語関連の記事として「comeとgo再び」と題する記事を長々と書いてきた。
comeとgoはいずれも、英語の単語として最も基本的なものだ。学校で英語を習った人なら、ほぼみんな知っていると思う。
しかし、この基本的な単語でさえ、その使い分けは意外なほど難しい。
「come=来る」という等式で理解していると、ある状況のときにこれが「come=行く」になることがある。
これは、そもそも日本語の「来る、行く」と英語の"come, go"の使い方のルールまたは原理が全く異なっているのに、たまたまほとんどの場合、「come=来る、go=行く」が成り立っているので、その原理の違いに気がつかないままになっているのだ。
例えて言えば、自動車の運転で、ある状況のとき突然、左にハンドルを切ったら車が右に曲がったようなもので、何がどうなっているのか全く混乱してしまうわけだ。
どういう状況でハンドル操作が逆になるかを理解していればまだしも、このドライバーには、それが理解できていない。
となると、いつ何時いつもとは逆の操作が必要なのか判断できない。
単語のレベルでさえこれだから、日本語にはない冠詞だの、関係代名詞だの、時制だのとなると、完全な理解はほぼ絶望的だ。
ときどき、日本人はなぜ英語ができないのかというような疑問が発せられることがあるが、これは疑問に思うほうがおかしいことがここまでの説明で分かるだろう。
ここでまた自動車の運転に例えれば、日本語という普通の動作をする自動車の運転になれた者が、あるとき、状況によってはハンドル操作が逆になったり、シフトレバーの働きが前進と後退が逆になったり、果てはブレーキとアクセルが逆になったりする車に乗ったようなものだ。
こんな車に乗って目的地に無事に着けるものがどれだけいるだろうか。その運転技術になれることも容易ではないことは簡単に想像できる。
comeとgoの使い分けぐらい理解できているというのなら、この次に出す「comeとgo再び#11」の問題をやってみたらよい。
全問正解すれば、理解ができていることになる。
ところで表題の言葉は、私が創作したことわざ。
昔から、やっても無駄なことの例えとして「馬の耳に念仏」というのがある。いかにも表現が古く、意味が通りにくい。
その代わりに表題の言葉がいいのではないかというが私の提案だ。