日本人の英作文2016-7

桐野夏生による短編の後半。

地下鉄が入線して来た。その轟音に負けまいと亜美が声を張り上げる。
「そういう単純なことじゃない。あたしは後悔したんだよね。ああ、あなたみたいなポジティブ人間に相談した、あたしがバカだったって」
なるほど、亮平は亜美と一緒にいられるだけで幸福だったのに、亜美は亮平の言葉や態度をあれこれ考えて悩んでいたらしい。どうして亜美は、自分と言う人間が信頼できないのだろう。好きだったら、言葉尻なんかどうでもいいじゃないか。
「俺は亜美に嫌われても平気だよ。蛇蝎のごとく嫌われても信念を通す,という言葉だってあるじゃない。俺は自分が好きな人間は、相手も俺のことを絶対に好きになるって信じているから」
「また始まった。あたしはそういうところが変だって言っているの。蛇蝎のごとくって言葉には信念を通すって意味はないよ。あなたが都合よく解釈しているだけ」
なぜ、それが悪いのかわからない。たかが言葉じゃないか。でも、それを言うと亜美はもっと怒りそうだから、亮平は亜美の手をしっかり握って、地下鉄の開いた扉に向かった。

今回の課題箇所は上記後半部分の三行目まで。
訳文の例は次のとおり。

訳文1
The subway entered the track. Ami raises her voice louder than its thundering sound.
"It's not so easy. I wish I shouldn't have told you anything. Oh, it was stupid of me to have opened my mind to an optimistic man like you."
訳文2
The subway was entering. Ami raised her voice to compete with a thunderous roar.
"Not so simple thing. I regretted what I consulted with a positive man like you. How stupid of me!"

「地下鉄が入線してきた」の部分,訳文1は過去形で、訳文2は過去進行形で表した。
しかし、主語はどちらも"the subway"にしている。
この点を糾(ただ)すと,生徒の一人が"subway"には地下鉄の列車の意味もあると言ったので、訳文を訂正せずにおいたが、改めて調べてみると、やはり、subwayにはシステムとしての意味しかなく,個々の地下鉄の列車を意味しない。
日本語は曖昧で,「地下鉄に乗る」と言った場合,システムとしての地下鉄を利用するという意味と,個々の地下鉄の列車に乗るという意味の両方が含まれる。
その辺の区別を曖昧にしているから、"take the subway"と言う英和辞典の使用例を見ても,日本語の用法の両方の意味があると思ってしまう。
しかし、英語の場合、"take the subway"は、日本語の前者の意味しかない。
課題文の場合、当然ながら入ってきたのは,地下鉄の列車であって,地下鉄のシステムではない。
時制は過去形にすると,動作として完了していることになるから,進行形にするのが正しい。
「その轟音に負けまいと」の部分は、訳文1の処理で多分、通じると思う。
訳文2の"compete with"は、「負けまいと」の部分を何とか訳出しようとしたのだろう。これで通じるかどうかは微妙なところ。
別に亜美は列車の轟音と張り合いつもりではなく,亮平に自分の声を届かせることが目的だから,そのように表現すればよい。
つまり、「負けまいと」というのは,一種の比ゆ表現だということになる。
「あなたのようなポジティブ人間」のところは,前に出てきた由美の台詞にあったものだ。
そのときは「ポジティブ人間」を"an optimistic man"と表現した。
ところが、今度の亜美の「ポジティブ人間」の使い方は,相手の楽観的態度を非難したのではなく,物事を何でも単純化して考える考え方を非難したものだ。
亜美は、亮平の「何でも自分に都合よく考える」態度だけでなく、「何でも単純化して考える」態度の両方を「ポジティブ人間」で表現したのだ。
したがって、今度の文脈では、"an optimistic man"は使えない。
この文脈にぴったりの言葉は、"a simple-minded man"だ。これは、はっきり相手を見下したり,馬鹿にした表現だ。強い言葉なので、よほどのことがないかぎり面と向かっては使わない。
simple-minded manを日本語で表現すると、「単細胞人間」と言うのが一番近そうだ。
亜美のような人間からすると、多分、男はほとんどこの「単細胞人間」と言うことになるだろう。
訳例
The subway train was coming into the track. Ami raised her voice so that it could reach Ryohei's ears though the roar of the train was so loud.
"It's not that simple. I regretted consulting with a simple-minded man like you. How stupid of me!"