表題は以前に記事にしたことのある「生き物の死にざま」のセミに関する章につけられた副題。
この本は同じタイトルのものが2冊あり、「羽化をはばまれた夏」の章は後から刊行されたものの第9章に当たる。
最初に刊行されたものの第一章がやはりセミに関するものだったからこの筆者は、セミにはかなりの思い入れがあるようだ。
さて、「羽化をはばまれた夏」も随分切ない話が語られる。
一部を抜粋して引用してみる。
どうしてこんなところにいるのだろう。
そんな場所に、と思えるような場所にセミの抜け殻を見つけるときがある。たとえば、まわりに木がないようなコンクリートの塀にセミの抜け殻がある。
(中略)
土の中で暮らすセミの幼虫の生態はわかっていないことが多いが、土の中で木の根っこから栄養分を吸いながら六、七年もの歳月を過ごすのではないかと考えられている。
(中略)
ところが、セミの幼虫が土の中に潜ってから、あたりの風景は一変してしまう事もある。木々が切られてなくなってしまうこともある。土がコンクリートで埋められてしまう事もある。
やっとの思いで土の中から出てきても、羽化するための木が見つからないこともあるのだ。
探し回った挙げ句、あきらめて、アスファルトの道路の上で羽化しているセミの幼虫を見かけたこともある。
(中略)
せっかく成虫になったのに、羽のねじれたセミが、地面の上をうろうろとさまよっていることもある。彼は命が尽きるまで、歩き続けるのだろう。
(中略)
羽化に失敗し、大人になることもなく死んでいくセミの幼虫たち。夏の日の朝、そんな姿を見るのはつらい。
私は小学校の低学年の頃、夏休みが始まると同時に、毎日昆虫採集をするのが楽しみだった昆虫少年だった。
その頃、このあたりで一番良く見かけたセミといえば、ニイニイゼミ。小型のセミで木の幹に止まっていると、羽の模様がカモフラージュになっていて見つけにくい。
しかし、何しろ数が多いうえ、幹の下のほうにもたくさん止まっていたから捕獲は簡単だった。
その次に多いのがアブラゼミ。こちらも数が多かった。ニイニイゼミよりは捕獲が難しかったが、低学年性にも捕獲できた。
昆虫少年にとって、捕獲の簡単なありふれた昆虫はあまり価値がない。
捕獲した昆虫は標本にするのだが、ニイニイゼミは一度も標本にはしなかった。
標本にするには、展翅台というものを使って、羽を広げた形で昆虫を乾燥させる必要がある。
この手続きは低学年性には少々骨の折れる作業で、そんな面倒な事をするだけの価値がニイニイゼミにはなかった。
その頃、セミ獲りをする少年の間で価値が高かったのがクマゼミだった。
木の高いところにしかとまらず、捕虫網では届かないことがほとんど。細長い竹の棒の先に鳥もちをつけて、これでとる子供が多かった。
しかし、標本を作るには、この方法は不可。何しろ羽が鳥もちでべたべたになるから、
というわけで、夏休みが始まると、私は捕虫網を手に、毎日のように近所の神社にあるクスノキの下まで行っては捕虫網の射程内にクマゼミが止まっていないかと日参したものだ。