タイトルにある「最期」という言葉。「最後」の間違いではない。
一字違いで大違い。「最期」とはいうまでもなく、死ぬときの事。
最近購入して、ちょうど今読んでいる本がある。タイトルは「生き物の死にざま」。なんともストレートな表現。様々な生物がどのようにその一生を終えるかを綴った本だ。
最初のエピソードがセミに関するもの。エピソードのタイトルは「空が見えない最期」。
出だしの部分を引用してみる。
セミの死体が、道路に落ちている。
セミは必ず上を向いて死ぬ。昆虫は硬直すると足が縮まり関節が曲がる。そのため、地面に体を支えていることができなくなり、ひっくり返ってしまうのだ。
(中略)
仰向けになりながら、死を待つセミ。彼らはいったい、何を思うのだろうか。
彼らの目に映るのは何だろう。
(中略)
ただ、仰向けとは言っても、セミの目は背中側についているから、空を見ているわけではない。
ちょうど8月のこの時期、その一生を終えたセミの亡骸が路上に転がっているのを目にする。
なるほど、どの亡骸も仰向けだ。
しかし、最期を迎えたセミの目に映るものが空ではなく地面だということは知らなかった。
なんとも切なくなるような話だ。
何年もに亘る幼虫の時期を地中で暮らし、ほんの数週間ほどの成虫の時期を地上で暮らしたかと思うと、幼虫時代をすごした地面を見つめて死ぬ。ある意味、見事な一生なのかもしれない。
この本を読んで知った事が他にもある。幼虫の時期がどのぐらいなのか、実は正確には分かってはいないこと。
かつてはセミの幼虫は7年間を地中で過ごすといわれていて、昔昆虫少年だった私も以前はそう思っていた。
しかし、実際はセミの種類によって違うらしい事。それから種類によって一定かというと、そうでもないらしい事などが現在では知られるている。
いずれも「らしい」というのは、まだ誰も正確な事を調べていないとうこと。一体昆虫学者は何をしているのかといいたくなる。
まあ、それはともかく、なぜセミの幼虫はそんなに長く地中にとどまるのか。
これもこの本に書いてあったことだが、幼虫は地中に伸びた植物の根の導管に口吻を刺してそこから養分を吸う。
ところが、導管というのは、水分を地中から吸い上げ、それを植物体の隅々まで送る器官。
つまり、養分に乏しく、成長するためには、長期間が必要というわけだ。
一方、成虫になって木に止まっているときは、導管ではなく篩管だということ。
篩管は葉で光合成により作られた養分を植物体全体に運ぶ器官。養分はデンプンや、それを分解して作られるブドウ糖などの糖質。
体を動かすのにもっとも必要な養分だから、それが流れている篩管から樹液を吸うのが適している。
なるほど、中学一年の理科で習った光合成の仕組みとセミの吸う樹液がここで繋がった。(一体何年かかってんねん)
この本に書かれている様々な生き物の最期の姿。なんとも切ないものが多く、改めて「生きる」とは何かを思わずにいられない