イルカ漁解禁1

和歌山県太地町のイルカ漁が解禁となったことをニュースでやっていた。
反捕鯨団体の人たちがバスを連ねて太地にやってきている様子が映し出されていた。
その映像の後、スタジオのコメンテイターが他国の食文化に対して、実力を行使をしてまで、妨害をしようというのは、どのようなものかというような意見を言っていた。
番組の中で、インタビューを受けた地元漁民の一人が同じことを言っていたが、日本人の多くは、この意見に共感を覚えることだろう。
しかし、日本人の反捕鯨団体の行動に関するこうした考え方は、反捕鯨団体の人たちの考え方をまったく理解していないことを端的に表している。
彼らがクジラやイルカの捕獲になぜ反対するか。理由はクジラやイルカは、"intelligent"だからだ。
西欧文化、もっと言えば、キリスト教国の人たちにとって、人間の徳目の中で最高のもの。それが"intelligence"だ。
人間が他の動物と何が違うかと問われたとき、キリスト教国の人たちは、この"intelligence"という言葉を持ちだす。
言葉を使い、他の人と意思の疎通を行い、問題を自らの力で解決していく能力が人間にはあるが、それは、人間には"intelligence"があるからだと考える。
かつて、"intelligence"は人間の専売特許だった。しかし、少々事情が違ってきたのは、クジラやイルカの研究をしている欧米の学者や研究者たちが、クジラやイルカには、人間にも匹敵する"intelligence"があるかもしれないと主張し始め、ありとあらゆる手段で、一般の人間にもその考え方を広めたのだ。
一般にも上記に様な考え方が広まったとき、人間の最高の徳目を共有するかもしれないクジラやイルカを捕獲し、あまつさえそれを殺して食用に供するなど、食文化の違いなどという理由で許されるべきことではないという考えたが広がったのは、自然なことだった。
どこの世界に、自分の国では人食いが伝統的食文化だから、大目に見ろなどと主張できようか。
欧米社会における上記のような考え方は、日本人にはとてもなじみにくい。
"intellighece"を人間の最高の徳目にすること自体、日本人の考え方にはない。
日本語にすれば、"intelligence"は「知性」ということだろうが、「知性がある」というのは、「知的である」とほとんど同義で、平たく言えば、「頭がいい」とでもなるのが日本人的考えたかだ。
この理解で言えば、イルカやクジラは、頭がいいから保護されるべきということになる。
もっとも、欧米でも、子供だとほとんどそれに近い理解をしているようではある。