日本語に見る甘えの構造

土居健郎の「甘えの構造」は私の学生時代、文科系の学生にとって必読書だった。
内容は日本の社会全体に通底する精神的相互依存を、それと気づかない日本人に、剔抉(てっけつ)して見せたものだ。
時代は移り、日本人の精神構造も表面的には大きく変化したように見える。しかし、少なくとも日本語を見る限り、その甘えの構造は、長い年月を経ても、何も変化がないようだ。
私は地元の公民館で、あるグループに英語学習の指導をしていて、学習の一環として英作文をしてもらっている。
この英作文に当たって、英作文用に用意されたものを教材にするのではなく、新聞などに掲載されたエッセーを選んでいるが、一見、英語に訳すのが簡単に見える文章でも、直訳的に訳すと問題のある文がとても多いことに気づく。
日本語の文章に特徴的なのが、主語の省略。どんな種類の文章であれ、主語の省略のない文章はないといえるほど、主語の省略は日本語の文章では当たり前のものだが、英語で主語がない文章は、個人の日記などに見られる特殊な場合を除いてありえない。
英語に置き換える場合、省略された主語を必ず付け加えなくてはならない。
英語では、目的語に当たる言葉の省略も日本語では頻繁に出現する。英語に訳すときに、他動詞を使う場合、欠けている目的語を補充して訳すことになる。
日本語で、文章の重要な部分が当たり前のように省略されるのは、読み手なり、聞き手が省略された部分を適正に補充して理解してくれるだろうという表現者側の期待があるからだ。
表現者側のこの期待は、単に主語の省略にとどまらず、正確でなくても、ざっくりとした表現でも相手はわかってくれるだろうという期待、すなわち甘えにまで拡張される。
表現者側の意図するところが受け取り側にうまく伝わらなかった場合、その責任は表現者側と受け取り側が50パーセントずつ負うのではなく、受け取り側に責任の大半が負わされるのが日本の言語文化だ。
小学校5年の時の担任、例の時計の針の右回りを説明した教師は、連絡事項か何かを私に伝えようとして、うまく伝わらなかった時、「あなたは相手の話をよく聞いていない」と私を叱った。
私にすれば、ちゃんと話は聞いていたのにと思ったが、教師の言わんすることは伝える時の表現や情報に不備があっても、相手の伝えたいと思っていることを、聞いた側が推察しなければならないということだったのだ。
小さい時から、表現の正確さこそが大事と考えていた私には、到底納得のいかない教師の言動であったが、衆寡敵せず、日本の社会全体は私の味方ではなかった。
日本の言語文化の対極をなすのが英語の言語文化だ。表現者は自己の表現に関して100パーセントの責任を負う。物の製造に例えれば、メーカーが自社の製品に関して100パーセントの責任を負うのと同じだ。
日本では、製品に関して事故があった場合、利用者の使い方が悪かったと責任を転嫁しているようなものだ。
英語と日本語、言語の特性から見て、この両者には北極と南極ほどの対極的な差異があるが、言語的差異に加えて、表現上の正確さを求める態度にも、天地ほどの差があるのだ。
今、学習会の英作文の課題として、プロスケーターの荒川静香のエッセイを取り上げている。最初、英作文が簡単な文章と思ったものの、日本語ではまったく問題のない文章のあちらこちらに、英訳の際に障害となる表現上の不備があることに後で気がついた。
このエッセイの冒頭部分に「12月が誕生日なので、クリスマスもお年玉も一まとめでいいから「犬がほしい」とねだったのです。」という文があった。
この文の意味が、よく解らないという日本人はほとんどいないだろう。
しかし、この文を表面的な表現そのままに英訳すると意味不明になる。
たとえば、Since my birthday is in December, I said, "You can combine Christmas with New Year's gift money but I want a dog."という英語に訳したとする。
時制もめちゃくちゃなら、言っていることも何の事だかさっぱりわからない英語になっている。
直訳的に英語にするには、元の日本語に問題があることに学習会のメンバーの何人かは気がついたようだ。訳例1、訳例2を見るとそのことが解る。元の日本語にはまったくない言葉を使った文を付け加えているからだ。
言葉を受け取る側の理解力に大いに依存している日本語のありようは、日本人の甘えの構造が土居健朗が甘えの構造を書く前から、そして、その後の現在に至るまで、なんらの変容もなく継続していることを示している。