夢は夜開く5

色を識別する大脳の部分が、画像の動きなどを処理する部分とは違っていて、白黒の夢を見る人の場合、前者の部分が眠っているときには、機能していないからと考えられる。
また、Aさんのように、登場人物が誰もしゃべらない夢を見るというのは、言語機能をつかさどる部分、または広く、音声を処理する部分が機能停止の状態なのだろう。
機能停止ということで思い当たるのは、視覚、聴覚以外の味覚、触覚、臭覚に関しては、私が見る夢でも、ほとんど機能していないように思える。
ほとんどというのは、たとえば、何かを食べている状況では、食べているものに味がほとんど感じられないが、ほんの少しではあるが、何がしかの味覚は感じられるからだ。
そのため、味に物足りなさを感じ、テーブルの上の醤油やソース、マヨネーズをかけまくって食べるという夢を時々見る。
臭覚や触覚に関しては、これはもうほとんど夢の中では自覚することがない。
ごくまれに、何かをにおいを感じる夢を見ることがあるが、その場合、例外なく、目を覚ますと部屋中に何かのにおいが充満している。
覚醒時には情報収集のための重要な役割を果たす、五感に関して、夢の中では相当の機能制限がかかっているようだ。
この点に関して、先の「夢に迷う脳」の記述を引用してみる。

心的内容
MSEのこの項目(心的内容)は、実際には心的内容をまったく扱っていないため、この項目名は誤解を与えるに違いないとかねてより思っている。そのかわり、この項目は夢の活動が表される形式(フォルム)に重点を書くものである。デリアの夢の内容は、幻覚(誤った知覚)妄想(誤った信念)という形式で表されている。その意味では、夢のシナリオは全体として虚構なのである。
デリアの夢体験の基調となっている視覚と運動知覚の豊かさこそ、この心的形式の第一の特徴というべきものである。彼女の夢の中で人物、場所、行為はみなそこにありありと存在している。それらは舞台裏からのぞいたり聞こえてきたりするような曖昧なイメージや声などではない。彼女はそれらを幻視しているのである。デリアは実際に気球のバスケットの中で父親と姉と妹と会っている。そして、ゴルフ・トーナメント、送電線、美しい公園、海岸、タンカー、少年、アルアクサ寺院、難民用のマットレスを見ているのだ。
こうしたこと全体から、明白であるが由に見逃してしまっていることが二つある。ひとつは、夢の中の場面が一貫しており、なおかつ鮮明であること。そしてもうひとつは、彼女が場面に実際に居合わせ、そこで行動しているという感覚だ。心脳が幻覚を見る主だった特長、これは純粋に視覚というよりも視覚運動に特徴づけられるようである(視覚運動という表現は夢の映画的な特徴をよくとらえている---シーンは絶えず移り変わり、私たちはその中で動き回るのである)。
ダリの絵画は、奇異で超現実的なデリアの夢体験にふさわしい隠喩(メターファー)だと思う。しかしダリの絵画が静的なものであるのに対し、デリアの夢は静的ではない。ダリの有名な超現実主義的映画作品「アンダルシアの犬」(一九二八年)は夢の隠喩によりいっそう相応しい。視覚と運動、双方が連続的であるためだ。また、このサイレント映画は、夢の中で聴覚が相対的に弱まるという事実を正確に模している。この点は、はっきりと会話を欠いているとして、先に指摘したとおりである。感触、温度、味、匂いなどの感覚も同様に弱まる。実際、こうした感覚がデリアの報告文に出てくることはない。

覚醒時に五感の多くがうまく機能していないと、当然、人はそれに直ぐ気がつくし、パニックになるだろう。
しかし、夢の中では、こうした状態になんらの疑問を持たない。
夢の中で、自分という意識は覚醒時と変わらないが、その自分は相当に鈍感になっていて、さらにそのことにまったく気がつかないときている。