人工知能の限界4

3月22日付、読売新聞一面の記事の見出しは「AI小説 創造のめばえ」となっていた。
SF作家である星新一の名を冠した「星新一賞」という文学賞のひとつに、人工知能(AI)が書いたとする作品が応募し、その一次審査をパスしたというのだ。
記事の冒頭部分を引用する。

人物描写に課題


「私ははじめて経験する楽しさに身悶えしながら,夢中になって書き続けた。コンピュータが小説を書いた日。コンピュータは、自らの楽しみの追求を優先させ、人間に仕えることをやめた。」
報告会で公表された作品のひとつ「コンピュータが小説を書く日」の終わりの部分だ。
松原仁・公立はこだて未来大教授が代表を務めるチーム「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですよ」が、第3回日経「星新一賞」に応募した。
物語の構成や登場人物の性別などを人間があらかじめ設定。人工知能が状況に合わせて、人間が用意した単語や単文を選びながら「執筆」したという。
報告会では、SF作家の長谷敏司「きちんと小説になっていることに驚いた。しかし、賞をとるには人物描写などに課題がある」と指摘した。

コンピュータが書いたとする小説の抜粋を見るかぎり,ちゃんと意味の通った文章になっていて,人工知能がここまできたかと思わせる。
しかし、記事をよく読むと「物語の構成や登場人物の性別を人間があらかじめ設定。人工知能が状況に合わせて、人間が用意した単語や短文を選びながら『執筆』したという」とある。
物語の構成も登場人物も,果ては表現のための単語や短文まで人間が用意して,それでコンピュータが「執筆」したといえるのか。
出来上がりの文章を読むとちゃんと意味の通ったものになっているが、これもコンピュータによる出力はこれひとつではなく,いくつもの出力の中から人間が意味のとれるものを選択したに違いない。
なぜなら、コンピュータに出力した文章が意味の取れるものかどうかは判断できないからだ。
もしそれが出来るというのなら、コンピュータに,たとえば星新一ショートショートの一編を入力し,その内容を要約,または感想文を書かせてみればよい。
そんなことは出来るはずがない。
内容の理解すら出来ないものが、小説を自ら「執筆」したなどというのは,表現過剰もいいところだ。
本当に執筆したといえるのは、コンピュータが独力で文章の内容を理解できるようになり,自分も何か表現したいと思って物語を書くのでなければならない。
いずれはコンピュータにもそれが可能な日が来るかもしれない。
しかし、それは一体いつのことだろうか。次の10年や20年では到底無理だろう。コンピュータが小説を執筆したなどというのは,100年早い。
ただ、今回小説を執筆したというシステム,ある有効な使い方が考えられる。
そのシステムを使えば,文才のないものでも,それなりの物語が構築できるだろう。ちょうどこれは、複数の他人の論文をつぎはぎして、論文をでっち上げる手法と同じだ。
星新一賞には、近い将来、そうしたニセモノ小説の応募が後を絶たない事態となろう。