英語の公用語化論3

英語の会話サークルなどで、日本人同士が英語でしゃべる場合、その英語に誤りがあってもほとんど問題となることはない。
そもそも、間違った英語があっても、どこがどうおかしいかを的確に指摘できる日本人はかなり限られている。
かくいう私自身、書かれた英語ならそれなりの文法知識を駆使して、ある程度間違いを指摘できるが、会話の場合、自分でも、でたらめな英語になっていることが多々ある。
間違った表現をした後、その間違いに気づくことはまれといってよい。
なぜこういうことになるかというと、日本人の会話英語は、日本語からの直訳になりがちだからだ。
書く英語の場合だと、さまざまな角度からの検討が可能だから、間違いは減るだろうが、思いついたらその場ですぐに口にする必要のある会話の場合、文法的考察や表現の吟味などしている暇がないから、とりあえず日本語からの直訳でも何でも、思いついたものを口にしてしまうから、正しい英語になる可能性のほうが少ないとすらいえる。
間違いが訂正されないから、日本人同士の英会話をいくら熱心に続けてみても、大して英語の実力は伸びない。
日本人の英語の間違いは、英語の要素のほぼすべてに及ぶ。その中でも、顕著に間違いが多いのが、時制と冠詞だ。
英語にとって時制と冠詞は、その働きから行って、動物の体にたとえれば、脊椎動物の骨格と大脳に匹敵する重要な要素だ。
そして、この時制と冠詞は、日本語にはない機能だ。日本語に時制がないというのはどういうことかの説明は、それだけでかなり長い説明が必要なので、ここでは触れない。
マーク・ピーターセンの「日本人の英語」にこれに関する記述があるので、そちらを参照してもらいたい。
母語に時制も冠詞もない日本人は、英語の時制や冠詞の機能を十分に理解できない。
日本語からの直訳による英語は、いわば時制を無視した英語になってしまうし、冠詞についても、名詞についた付録程度の認識だから、的確な使用はまず望めない。