二階の雨戸を叩くもの

ようやく冬らしい寒い日がやって来た。
しかし凍てつくような寒い朝というのは、もう過去のことのような気がする。
私が住む大阪では寒さといっても氷点下の気温になることは、今では滅多になくなっている。
さて、今を去ること数十年前、東京で下宿生活をしていたころのこと。冬の寒さは出身地大阪の冬の寒さをはるかに超えていた。
もちろん、大阪もその頃の冬は今より寒かった。しかし,その頃の東京の冬は、ヒートアイランド現象で妙に暖かくなってしまった今の東京の冬より、かなり寒かったと思う。
下宿は杉並区にあった。最寄の駅は西荻窪。この駅から北西方向に、とある女子大があり、下宿はその女子大から程近いところだった。
築後何年たっているのか分からないほどの古い二階建ての一般家屋。もうその頃でも珍しくなっていた賄いつきの下宿に5人の下宿人がいた。
私の部屋は二階の北西の角にあり、冬の季節,全く日が当たらない。
その上、古い木造家屋だっため、北西の季節風が窓の隙間から容赦なく吹き込み,部屋の温度は外と全く変わりがなかった。
下宿ではストーブは使用禁止だった。火事を起こせば木造家屋はひとたまりもない。
その事を考えれば,当然のルールだと思うが,北風がほとんどまともに吹き込むこの部屋で冬をやり過ごすのは,かなり大変だった。
冬の今の時期、東京の午後6時はもう真っ暗だ。真っ暗な道をしばらく歩いて近くの銭湯に行く。
この銭湯のお湯がやたらに熱い。最初に東京の銭湯に入ろうとしたとき,そのあまりの熱さに驚いたことを覚えている。
年配の男性が何人も,いかにも気持ちよさそうに湯船に浸かっている。そこで私も湯船につかるのだが、一分と辛抱ができない。
たまりかねて湯船から出ると、湯に浸かっていた体の部分がゆでだこのように真っ赤になった。
体の芯から暖まらないまま銭湯を出て下宿に戻る。外はすでに凍てつく寒さ。あっという間に体が冷えてくる。
急ぎ足で、下宿に戻り,ぬれたタオルを固く絞って,西側の窓に外の物干しに掛けた。
まだ体に銭湯での暖かさが残っているうちに,布団を敷いてもぐりこむ。
これしか、冬の夜の寒さを凌ぐ方法がなかった。
布団にもぐりこんでも肩口に冷え冷えとした隙間風が吹きかかるので,パジャマなんぞではとても眠れない。
外に着て行くジャンパーを着込んで寝るのだ。
もぐりこんでしばらくすると、体温で布団が温まってくる。そうなるまでの時間の長いこと。布団の中で体が温かくなってくると、自然と眠気が襲ってくる。
すると、西側の窓の雨戸をドンドンと叩く音がし始めた。
ここは二階の部屋だ。二階の窓には,張り出した手すりが取り付けてあったが,下から上れるような場所ではない。
そんな場所の雨戸を外からドンドンと叩く者がいる。一体何者。
恐る恐る雨戸を開けて外を見た。そこには誰もいなかった。
そして雨戸をドンドンと叩いていたものの正体は物干しに掛けたタオルだった。
なんと、物干しに掛けて、一時間もしないうちに,寒さのためのタオルは凍りつき,そして,強い北風のために,カチカチになったタオルが風車のように物干しを軸にぐるぐると回っていたのだ。
回り時にタオルの端が雨戸に当たり、そのためドンドンという音を立てていた。
午後7時ごろにすでに氷点下の寒さで、さおに干した湿ったタオルが凍りつく。今の東京の平地では、もうこんなことは起こらないのではないだろうか。